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大阪地方裁判所 昭和58年(人)5号 判決

請求者

山田甲子

右代理人

山西健司

酒井隆明

被拘束者

山田太郎

右代理人

平井満

拘束者

山田丙吉

拘束者

山田丁子

拘束者

山田乙夫

右拘束者ら三名代理人

奥野信悟

(大阪地裁昭昭五八(人)第五号、人身保護請求事件、昭58.10.5第八民事部判決、認容・確定)

主文

被拘束者を釈放し、請求者に引き渡す。

本件手続費用は拘束者らの負担とする。

事実《省略》

理由

一〈証拠〉を総合すれば左記の事実が認定できる。

1  被拘束者太郎は、請求者甲子拘束者乙夫夫婦の長男として昭和五四年五月九日に出生した。乙夫、甲子の夫婦は、乙夫の肩書住所地で共同生活をしていたが、昭和五八年六月二〇日後記認定の経緯により別居することになり、甲子は太郎を連れて右家を出、八尾市に文化住宅を借り、サユリ、太郎と共に生活し、太郎をそこから保育所に通わせていた。

2  昭和五八年七月七日、乙夫は保育所に行き、太郎を連れて帰ろうとしたが、保育所から母親の了解がなければ渡せないと断られたため、保育所の先生に甲子に連絡をとつてくれるよう頼み、電話を通じて甲子に対し「自分の子供を連れて帰つてなぜ悪い」と文句をいい、保育所としても父親が来ている以上、無理に太郎を渡さないこともできないので、乙夫が太郎を強引に連れて帰るのを容認せざるを得なかつた。甲子は保育所からの連絡で太郎が既に乙夫の両親である拘束者丙吉、同丁子方へ連れて行かれたことを知り、すぐに丙吉、丁子方へ行くと、乙夫がおり、甲子が同人に対し「黙つて連れ出してもらつてはこまる」「太郎を連れて帰る」といつたが聞き入れられず、丁子が「二、三日、責任をもつから私に預らせてくれ、」というので、やむなくそのまま太郎を預けたまま帰つた。

3  昭和五八年七月九日に、甲子が太郎を引き取りに丙吉、丁子方へ行くと、乙夫が太郎を車でどこかへ連れて行つてしまつていなかつた。同年七月二〇日に、離婚調停の第一回の期日があつたが、乙夫は「子供は自分が見る、渡さない」というので話はすすまなかつた。翌二一日、甲子が丙吉、丁子方を訪ねると、乙夫はそのときも太郎をどこかへ連れて行つてしまつており、甲子は太郎に会えず、甲子が丁子に「本当に子供のことを考えるのなら、母親に育てさせるのが一番と違いますか」などと子供の将来や教育のことを尋ねると、丁子は「教育は父親がやる」「自分の息子を信用している」といい、さらに「子供が欲しかつたら下手に出て謝つて帰つてくればよい。」「そんな態度なら一生渡さない」と言つた。その後、七月二七日、甲子は丙吉、丁子方へ行き、太郎と会い、一日だけという約束で太郎を連れて帰り、二九日朝、太郎を丁子のところへ連れて帰つた。さらに八月六日に、保育所の行事である盆踊りの会場で、乙夫、丁子と共に来ていた太郎と甲子が会つている。

以上の事実が認められ〈る。〉

右の事実によれば、被拘束者は意思能力のない幼児であることが明らかであり、このような幼児を監護養育することは、必然的にその者の身体の自由を制限する行為を伴うものであるから、人身保護法にいう拘束に該当するものというべく、拘束者丙吉、同丁子、同乙夫は太郎を拘束しているものと認められる。さらに、拘束の経緯も前記のとおり、甲子が監護養育していた太郎を、乙夫が保育所から一方的に連れ去つたものであり、拘束者らは、甲子が太郎と面会したり、連れ出したりすることを拒絶していないものの、共同親権者の一方の親権の行使を排して、太郎を拘束者らの排他的環境下においている点で、その拘束の違法性を一応認めることができる。

二進んで、拘束者らの被拘束者に対する拘束の違法性が顕著であるか否かについて検討する。

1  〈証拠〉を総合すれば左記の事実が認定できる。

(一)  別居に至る経緯

甲子は昭和二一年三月二七日谷川久雄、同フサエ夫婦の長女として出生し、昭和四〇年三月大阪府立八尾高校二部を卒業し、昭和三九年四月一日から大阪法務局八尾出張所に勤務し、途中中野出張所への転勤を経て、現在は元の八尾出張所に勤務している。乙夫は丙吉、丁子夫婦の長男として昭和二〇年一一月三〇日に出生し、鹿児島大島実業高校を卒業し、大阪に出て来て修理工、トラック、タクシーの運転手をした後、昭和五〇年当時は菓子製造業、田中屋の運転手をしていた。甲子は昭和五〇年一月に乙夫と見合し、同年四月一四日結婚式をあげ、同年五月九日に婚姻届をなした。昭和五〇年一〇月、甲子が腎臓結石で入院手術したころより、乙夫は会社を休むことが多くなり、給料を一ケ月分全額支給されることが少くなつた。そして、田中屋の同僚と麻雀をよくやるようになり、それが度を過すようになり、甲子の収入をあてにして、まじめに働かなくなつた。甲子は、何か目標があれば乙夫が立ち直り、少しはまじめに仕事をするようになると考え、自分で貯めた金と、他人より借金した金を合わせて、頭金にし、八尾市にある建売の家(乙夫の肩書住所の家)を購入した。昭和五三年一〇月甲子は妊娠し、子供が生まれれば、乙夫も変つてくれるだろうと期待をもつた。昭和五四年一月に、乙夫はもつと条件のよいところへ勤めるといつて、田中屋を辞めてしまい、その後八月末までは失業保険金を受けていたが、八月末からは○○交通の運転手として勤務するようになつた。この間同年五月九日、長男太郎が生まれたが、甲子の期待に反し、乙夫の生活態度は改まらず、○○交通に勤めてからも、相変らず無断欠勤が多く、勤務明けの仕事の休みの日でも夜帰りが遅くなつたり、帰つてこないこともあつた。乙夫はその頃より市役所の人等常連と吉兆という麻雀屋で麻雀を頻繁にやるようになり、太郎の面倒はほとんど見ず、甲子に任せたままにしていた。甲子はこの頃、自分の両親や丁子に、乙夫のことについて家に来てもらつて相談したことがあつたが、乙夫の生活態度はその後も変らなかつた。昭和五五年一〇月頃からは、乙夫はますます仕事を休みがちになり、給料が月に二ないし三万円という状態にまでなつた。なお、太郎の世話については、甲子が法務局に勤務していた関係で、太郎誕生後まもなく丁子に昼間の太郎の面倒を見てもらつており、その保育料として甲子は丁子に金三万五〇〇〇円を払つていたが、昭和五六年一二月には乙夫から給料が全然入らず、甲子は丁子に保育料を全額渡すことができず、また丁子も、太郎の面倒をみるのが疲れることから、これ以上太郎の面倒をみることができないと甲子に告げたことがあつた。そこで、甲子は、昭和五七年四月より太郎を保育所に入れたが、保育所終了後甲子が勤務を終え太郎を迎えに来るまでの間は丁子が太郎の面倒を見ていた。昭和五八年一月になると、乙夫は、甲子に無断で○○交通も辞めてしまい、その頃からは、朝から麻雀屋に入り浸りになるという状態になつた。甲子はそれまで子供のことを考えて、何度も我慢してきたが、乙夫の態度が改まらないならば、もはや別れる他はないと決心するに至り、昭和五八年二月仲人の林賢二と、甲子の弟の谷川香一に相談した。そこで林は吉兆に事実を確かめに行くと乙夫がいたので、同人と話をしたところ、乙夫は、林に対し、「来月からは働く」といつたが、その後も乙夫の生活態度は変らなかつた。同年六月二〇日、丙吉方に、甲子、乙夫、林夫婦、谷川香一、乙夫の姉村田エンが集まり、甲子、乙夫夫婦の問題について話合が持たれたが、その日も乙夫は麻雀をやつており、予定の時刻より一時間程遅れて丙吉方にやつてきた。その席で、丙吉より「いつまでももめていないで、この際はつきりせよ」という発言があり、甲子が「主人が働いてくれる保証がない限り戻れない」というと、丙吉は「自分の息子は働くとは思うが、働く保証は自分はできん」と述べ、乙夫自身は「働けへん、働かれへん。」「別れるというなら仕様がない」というだけであつた。この発言を聞いて、甲子は、乙夫の生活態度の改善は不可能であり、別れるより仕方がないと考えやむなく太郎を連れて席を立ち、結局話合は一五分程で終つた。乙夫らは、甲子が太郎を連れて帰るについて何ら異議もいわなかつた。甲子は、同日太郎を連れ、一旦柏原市国分の実家へ戻つたあと、同年七月二日、太郎が保育所に通えるようにするため、肩書住所の文化住宅を借りて、サユリと太郎の三人で住むようになつた。

(二)  請求者の監護環境

甲子は、現在サユリと共に八尾市の文化住宅を賃借し、居住している。文化住宅は六帖、四帖半の二間と台所、風呂場の間取りである。甲子は現在も法務局に勤務しており、月収約一八万円と安定しており、この中から三万八〇〇〇円の家賃を支払い、残りで、サユリと太郎の三人分の生活費を支出することになる。太郎を甲子が監護する場合、甲子の勤務時間の都合上、太郎の保育所の終わる午後四時から甲子が帰宅する午後六時までは、サユリが太郎を監護しなければならないが、サユリは病院通いをしているものの、幼児の監護養育に特に支障はなく可能である。甲子は太郎に対する愛情や監護意欲は十分である。

(三)  拘束者らの監護環境

丙吉、丁子方住居は、木造二楷建、一階部分四畳半二部屋、二階部分六畳、三畳各一室の広さで、現在この二人が居住しているだけであり、ゆとりがある。丙吉は○○熱処理株式会社に守衛として勤務し、現在は月収約一三万円を得ている他に厚生年金月九万円の収入がある。丙吉、丁子共に愛情をもつて太郎に接しており、また太郎も祖父母である丙吉、丁子に慣れ親しんでおり、また近所には太郎の友だちも多い。実父乙夫は、現在定職もなく、週三日程度の割合で吉兆へ午後六時から深夜まで出向いて店の手伝いをし、その謝礼として吉兆の主人の気持で月一〇万円程度もらうというものであるが、少くとも安定した状態といえるものではない。また、乙夫は病気を理由に定職についていないが、医者へも行かず、病気を治療し、定職に就こうとする意欲も乏しい。太郎の日常の世話は、主に丁子が行つており、乙夫は、たまに太郎を遊びに連れていく程度である。

以上の事実が疎明され、〈証拠〉中、右認定に反する部分はたやすく信用できないし、他に右認定を左右するに足る疎明資料はない。

2 ところで、夫婦関係が破綻し、別居状態にある夫婦の一方が他方に対し、人身保護法に基づき共同親権に服する意思能力のない幼児の引渡しを請求する場合には、その拘束の違法の顕著性の有無は別居した夫婦のいずれに監護養育させるのが幼児の幸福に適するかを基準としてこれを定め、拘束者よりも請求者によつて監護養育される方が幼児の幸福に適することが明白な場合は、拘束の違法性が顕著な場合にあたると解するのが相当である。

これを本件についてみるに、前認定の事実からすると、請求者には、母親としての太郎に対する愛情、監護養育を果し得る能力を認めることができるが、他方、拘束者側については、確かに、太郎の祖父母丙吉、丁子は、愛情、監護能力の点につき、当面問題はないものの、太郎を法律上監護養育すべき権利者ではなく、事実上、共同親権者である乙夫と共同もしくは従たる立場で太郎を拘束しているにすぎないものであること、ところが共同親権者である乙夫が、いまだに定職もなく、働く意欲も乏しく、生活面で丙吉、丁子に大きく依存していること、また太郎に対する監護養育の面でも、甲子と同居中には太郎の養育にほとんど関心を示さず、甲子に任せていたことが、夫婦別居の一因となつており、現在も太郎の実質上の監護養育は丁子にほとんど依存していること、更に、乙夫が定職につかず、夜麻雀屋に出入りし、深夜帰宅するといつた生活態度が幼児に及ぼす影響をも考慮すれば、乙夫の父親としての愛情、監護能力には問題があるといわざるを得ない。従つて、請求者、拘束者らのこれらの事情を比較勘案すれば、満四才四月余りの幼児である被拘束者が拘束者らによつて監護養育されるよりも、母親である請求者によつて監護養育される方が幸福に適することが明白であるというべきである。

三以上のように、拘束者らによる被拘束者の監護は人身保護法、同規則の拘束にあたり、かつ右拘束は違法であつて、しかもそれが顕著であるというべきであるから、本件請求は理由がある。よつて、これを認容し、人身保護法一六条三項により直ちに被拘束者を釈放すべきことを命じ、被拘束者が幼児である点に鑑み請求者に引渡すこととし、手続費用につき同法一七条、同規則四六条、民訴法八九条、九三条を適用し、主文のとおり判決する。

(田畑豊 三輪佳久 生野考司)

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